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編集長がまた皮肉な男で、人を冷やかすことをなんとも思わぬ。骨折って美文でも書くと、杉田君、またおのろけが出ましたねと突っ込む。なんぞというと、 少女を持ち出して笑われる。で、おりおりはむっとして、己(おれ)は子供じゃない、三十七だ、人をばかにするにも程(ほど)があると憤慨する。けれどそれ はすぐ消えてしまうので、懲りることもなく、艶(つや)っぽい歌を詠(よ)み、新体詩を作る。
すなわちかれの快楽というのは電車の中の美しい姿と、美文新体詩を作ることで、社にいる間は、用事さえないと、原稿紙を延(の)べて、一生懸命に美しい 文を書いている。少女に関する感想の多いのはむろんのことだ。
その日は校正が多いので、先生一人それに忙殺されたが、午後二時ころ、少し片づいたので一息吐(つ)いていると、
「杉田君」
と編集長が呼んだ。
「え?」
とそっちを向くと、
「君の近作を読みましたよ」と言って、笑っている。
「そうですか」
「あいかわらず、美しいねえ、どうしてああきれいに書けるだろう。実際、君を好男子と思うのは無理はないよ。なんとかいう記者は、君の大きな体格を見 て、その予想外なのに驚いたというからね」
「そうですかナ」
と、杉田はしかたなしに笑う。
「少女万歳ですな!」
と編集員の一人が相槌(あいづち)を打って冷やかした。
杉田はむっとしたが、くだらん奴(やつ)を相手にしてもと思って、他方(わき)を向いてしまった。実に癪(しゃく)にさわる、三十七の己(おれ)を冷や かす気が知れぬと思った。
薄暗い陰気な室はどう考えてみても侘しさに耐えかねて巻き煙草(たばこ)を吸うと、青い紫の煙がすうと長く靡(なび)く。見つめていると、代々木の娘、 女学生、四谷の美しい姿などが、ごっちゃになって、縺(もつ)れ合って、それが一人の姿のように思われる。ばかばかしいと思わぬではないが、しかし愉快で ないこともない様子だ。
午後三時過ぎ、退出時刻が近くなると、家のことを思う。妻のことを思う。つまらんな、年を老(と)ってしまったとつくづく慨嘆する。若い青年時代をくだ らなく過ごして、今になって後悔したとてなんの役にたつ、ほんとうにつまらんなアと繰り返す。若い時に、なぜはげしい恋をしなかった? なぜ充分に肉のか おりをも嗅(か)がなかった? 今時分思ったとて、なんの反響がある? もう三十七だ。こう思うと、気がいらいらして、髪の毛をむしりたくなる。
社のガラス戸を開(あ)けて戸外(おもて)に出る。終日の労働で頭脳(あたま)はすっかり労(つか)れて、なんだか脳天が痛いような気がする。西風に舞 い上がる黄いろい塵埃(じんあい)、侘しい、侘しい。なぜか今日はことさらに侘しくつらい。いくら美しい少女の髪の香に憧れたからって、もう自分らが恋を する時代ではない。また恋をしたいたッて、美しい鳥を誘う羽翼(はね)をもう持っておらない。と思うと、もう生きている価値(ねうち)がない、死んだ方が 好い、死んだ方が好い、死んだ方が好い、とかれは大きな体格を運びながら考えた。
顔色(かおつき)が悪い。眼の濁っているのはその心の暗いことを示している。妻や子供や平和な家庭のことを念頭に置かぬではないが、そんなことはもう非 常に縁故が遠いように思われる。死んだ方が好い? 死んだら、妻や子はどうする? この念はもうかすかになって、反響を与えぬほどその心は神経的に陥落 (ロスト)してしまった。寂しさ、寂しさ、寂しさ、この寂しさを救ってくれるものはないか、美しい姿の唯一つでいいから、白い腕にこの身を巻いてくれるも のはないか。そうしたら、きっと復活する。希望、奮闘、勉励、必ずそこに生命を発見する。この濁った血が新しくなれると思う。けれどこの男は実際それに よって、新しい勇気を恢復(かいふく)することができるかどうかはもちろん疑問だ。
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