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信濃町(しなのまち)の停留場は、割合に乗る少女の少ないところで、かつて一度すばらしく美しい、華族の令嬢かと思われるような少女と膝を並べて牛込ま で乗った記憶があるばかり、その後、今一度どうかして逢(あ)いたいもの、見たいものと願っているけれど、今日までついぞかれの望は遂げられなかった。電 車は紳士やら軍人やら商人やら学生やらを多く載(の)せて、そして飛竜のごとく駛(はし)り出した。
トンネルを出て、電車の速力がやや緩(ゆる)くなったころから、かれはしきりに首を停車場の待合所の方に注いでいたが、ふと見馴(みな)れたリボンの色 を見得たとみえて、その顔は晴れ晴れしく輝いて胸は躍(おど)った。四ツ谷からお茶の水の高等女学校に通う十八歳くらいの少女、身装(みなり)もきれい に、ことにあでやかな容色(きりょう)、美しいといってこれほど美しい娘は東京にもたくさんはあるまいと思われる。丈(せい)はすらりとしているし、眼は 鈴を張ったようにぱっちりしているし、口は緊(しま)って肉は痩(や)せず肥(ふと)らず、晴れ晴れした顔には常に紅が漲(みなぎ)っている。今日はあい にく乗客が多いので、そのまま扉のそばに立ったが、「こみ合いますから前の方へ詰めてください」と車掌の言葉に余儀なくされて、男のすぐ前のところに来 て、下げ皮に白い腕を延べた。男は立って代わってやりたいとは思わぬではないが、そうするとその白い腕が見られぬばかりではなく、上から見おろすのは、い かにも不便なので、そのまま席を立とうともしなかった。
こみ合った電車の中の美しい娘、これほどかれに趣味深くうれしく感ぜられるものはないので、今までにも既に幾度となくその嬉(うれ)しさを経験した。柔 かい着物が触る。えならぬ香水のかおりがする。温(あたた)かい肉の触感が言うに言われぬ思いをそそる。ことに、女の髪の匂(にお)いというものは、一種 のはげしい望みを男に起こさせるもので、それがなんとも名状せられぬ愉快をかれに与えるのであった。
市谷(いちがや)、牛込(うしごめ)、飯田町と早く過ぎた。代々木から乗った娘は二人とも牛込でおりた。電車は新陳代謝して、ますます混雑を極(きわ) める。それにもかかわらず、かれは魂を失った人のように、前の美しい顔にのみあくがれ渡っている。
やがてお茶の水に着く。
五
この男の勤めている雑誌社は、神田(かんだ)の錦町(にしきちょう)で、青年社という、正則英語学校のすぐ次の通りで、街道に面したガラス戸の前には、 新刊の書籍の看板が五つ六つも並べられてあって、戸を開(あ)けて中に入ると、雑誌書籍のらちもなく取り散らされた室の帳場には社主のむずかしい顔が控え ている。編集室(へんしゅうしつ)は奥の二階で、十畳の一室、西と南とが塞(ふさ)がっているので、陰気なことおびただしい。編集員の机が五脚ほど並べら れてあるが、かれの机はその最も壁に近い暗いところで、雨の降る日などは、ランプがほしいくらいである。それに、電話がすぐそばにあるので、間断(ひっき り)なしに鳴ってくる電鈴が実に煩(うるさ)い。先生、お茶の水から外濠線(そとぼりせん)に乗り換えて錦町三丁目の角(かど)まで来ておりると、楽し かった空想はすっかり覚(さ)めてしまったような侘(わび)しい気がして、編集長とその陰気な机とがすぐ眼に浮かぶ。今日も一日苦しまなければならぬかナ アと思う。生活というものはつらいものだとすぐあとを続ける。と、この世も何もないような厭な気になって、街道の塵埃(じんあい)が黄いろく眼の前に舞 う。校正の穴埋めの厭なこと、雑誌の編集の無意味なることがありありと頭に浮かんでくる。ほとんど留め度がない。そればかりならまだいいが、半ば覚めてま だ覚め切らない電車の美しい影が、その侘しい黄いろい塵埃の間におぼつかなく見えて、それがなんだかこう自分の唯一の楽しみを破壊してしまうように思われ るので、いよいよつらい。
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