分割するほど長い記事でシール使ってみる
2010-04-05



※本文の一部を隠した状態に戻す場合コチラをクリックしてください


 今日もそこに来て耳を※(そばだ)てたが、電車の来たような気勢(けはい)もないので、同じ歩調ですたすたと歩いていったが、高い線路に突き当たって曲 がる角で、ふと栗梅(くりうめ)の縮緬(ちりめん)の羽織をぞろりと着た恰好(かっこう)の好い庇髪(ひさしがみ)の女の後ろ姿を見た。鶯色(うぐいすい ろ)のリボン、繻珍(しゅちん)の鼻緒(はなお)、おろし立ての白足袋(しろたび)、それを見ると、もうその胸はなんとなくときめいて、そのくせどうのこ うのと言うのでもないが、ただ嬉(うれ)しく、そわそわして、その先へ追い越すのがなんだか惜しいような気がする様子である。男はこの女を既に見知ってい るので、少なくとも五、六度はその女と同じ電車に乗ったことがある。それどころか、冬の寒い夕暮れ、わざわざ廻(まわ)り路(みち)をしてその女の家を突 き留めたことがある。千駄谷の田畝の西の隅(すみ)で、樫の木で取り囲んだ奥の大きな家、その総領娘であることをよく知っている。眉(まゆ)の美しい、色 の白い頬(ほお)の豊かな、笑う時言うに言われぬ表情をその眉と眼との間にあらわす娘だ。
 「もうどうしても二十二、三、学校に通っているのではなし……それは毎朝逢(あ)わぬのでもわかるが、それにしてもどこへ行くのだろう」と思ったが、そ の思ったのが既に愉快なので、眼の前にちらつく美しい着物の色彩が言い知らず胸をそそる。「もう嫁に行くんだろう?」と続いて思ったが、今度はそれがなん だか侘(わび)しいような惜しいような気がして、「己(おれ)も今少し若ければ……」と二の矢を継いでたが、「なんだばかばかしい、己は幾歳だ、女房もあ れば子供もある」と思い返した。思い返したが、なんとなく悲しい、なんとなく嬉しい。
 代々木の停留場に上る階段のところで、それでも追い越して、衣(きぬ)ずれの音、白粉(おしろい)の香(にお)いに胸を躍(おど)らしたが、今度は振り 返りもせず、大足に、しかも駆けるようにして、階段を上った。
 停留場の駅長が赤い回数切符を切って返した。この駅長もその他の駅夫も皆この大男に熟している。せっかちで、あわて者で、早口であるということをも知っ ている。
 板囲いの待合所に入ろうとして、男はまたその前に兼ねて見知り越しの女学生の立っているのをめざとくも見た。
 肉づきのいい、頬の桃色の、輪郭の丸い、それはかわいい娘だ。はでな縞物(しまもの)に、海老茶の袴(はかま)をはいて、右手に女持ちの細い蝙蝠傘(こ うもりがさ)、左の手に、紫の風呂敷包みを抱えているが、今日はリボンがいつものと違って白いと男はすぐ思った。
 この娘は自分を忘れはすまい、むろん知ってる! と続いて思った。そして娘の方を見たが、娘は知らぬ顔をして、あっちを向いている。あのくらいのうちは 恥ずかしいんだろう、と思うとたまらなくかわいくなったらしい。見ぬようなふりをして幾度となく見る、しきりに見る。――そしてまた眼をそらして、今度は 階段のところで追い越した女の後ろ姿に見入った。
 電車の来るのも知らぬというように――。

       二


続きを読む
戻る
[長い長い長い長い長いカテゴリ名です長い長い]

コメント(全0件)
コメントをする

>>新着記事一覧へ

記事を書く
powered by ASAHIネット